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2017/09/29

刺青 高野聖 変身 サロメ付

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回は、谷崎潤一郎の有名な『刺青』という作品であるが、清(せい)吉という若い刺青師(ほりものし)は、なぜ、長年探し求めた美女の柔肌に「女郎蜘蛛」を描こうとしたのだろうか? その最大の「謎解き」とともに、その後の「展開」の考察であり、また、泉鏡花の『高野聖』という作品では、旅の途中、汽車の中で、一人の旅僧に出会うが、その旅僧の若い時の奇っ怪な経験話であり、その「内容」(あらすじ)とともに、人間の「二大本能」の一つ「性欲」についての考察であり、また、次の「変身」では、カフカの「作品」からは少し離れて、なぜ、われわれ人間というのは、表面的な「姿・形」が変わるだけで、われわれ人間の「見る目」も大きく変わってしまうのだろうか? それに「ひきこもり現象」などを合わせて考察したものであり、そして、最後は、オスカー・ワイルドの有名な『サロメ』という作品であり、それゆえ、映画や舞台その他などで見聞きすることも多いかと思うが、しかし、文章で「一字一句」を丁寧に読み辿るというようなことは以外に少ないのではないでしょうか。そこで、今回は、できるだけ「本文」に寄り添いながら、その「内容」を丁寧に読み辿ったものであり、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
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2017/09/27

オスカー・ワイルドの世界 サロメ

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回のオスカー・ワイルドの『サロメ』という作品は、非常に有名な作品であり、それゆえ、映画や舞台その他などで見聞きするようなことも多いかと思うが、しかし、文章で「一字一句」を丁寧に読み辿るというようなことは意外と少ないのではないかと思う。そこで、今回は、できるだけ「本文」に寄り添いながら、その「内容」を丁寧に読み辿ったものであり、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
 例えば、『新約聖書』の中にある「ヘロデとヨハネ」の「記述内容」によると、王ヘロデという人は、異母兄弟の兄の「妻」(ヘロデヤ)をめとったが、そのことで、ヨハネがヘロデに、「……兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったので、ヨハネを捕えて牢につないだことがあった。……そのため、王妃ヘロデヤは、ヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、出来ないでいた。それは、王ヘロデがヨハネを正しい聖なる人であると知って、彼を恐れ、また、保護を加えていたからである。――さて、王ヘロデの誕生祝いがあった時、王妃ヘロデヤの娘(サロメ)が満座の中で舞を舞い、王ヘロデを喜ばせた。そのため王ヘロデは、娘に「……願うものは何でもやろう」と誓った。娘は、母の入れ知恵で、「……洗礼者ヨハネの首を盆にのせて、今ここに頂きとうございます」と言った。王は非常に困ったが、それを与えるように命じ、人をやって牢でヨハネの首をはねさせた」という内容である。この『新約聖書』の中にある「ヘロデとヨハネ」の「記述内容」などを参考にして、オスカー・ワイルドという劇作家は、彼独自の戯曲『サロメ』へと、その「内容」を大きく創り換えたものであり、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/24

谷崎潤一郎の世界 鍵(完全版)

 さて、今回の谷崎潤一郎の有名な『鍵』の「完全版」というのは、「谷崎潤一郎の世界」の「鍵」の「第一部」から「最終部」までを統合したものではあるが、そもそも今回の「作品」の目的とその特徴はと言えば、それは、原作では、夫の「日記」は、いわゆる「漢字+カタカナ」の表記になっていて、それは非常に読みづらいものであり、それゆえ、原作を最初から最後まで正確に厳密に読めている人も少ないのではないかと思う。そこで、今回は、それらすべてを「漢字+ひらがな」に書き換えて表記してありますので、非常に読みやすいとともに、内容は、それぞれ「本文」+「**」+「解説」という構成になっていて、「本文」だけを読み通すことも出来れば、「本文」+「解説」でその理解を深めることも出来るものであり、特に谷崎潤一郎の『鍵』に興味や関心がありましたら、十分満足できる内容になっていますので、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/21

谷崎潤一郎の世界 鍵(第三部)

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回は、谷崎潤一郎の有名な『鍵』の「第三部」になるが、その内容は、次のようなものである。まず、夫(大学教授)は、大学病院の「眼科」と「内科」とで診察を受けるが、その結果、「血圧」が異常に高いということで、「血圧降下剤」をはじめ、コイトス(性交)を慎み、アルコールも止め、また、刺戟物や塩辛いものもいけないと言われるが、夫(大学教授)は、医師のその忠告を無視し、相変わらず「酒」と「淫慾」に溺れている。――やがて、娘(敏子)は、京都から少し離れた「大阪」に、母親(郁子)と木村の二人だけで出逢える「逢引き場所」を見つけてやることになる。――つまり、最初は、夫の「家」で、次は、娘(敏子)の「部屋」で、そして、今度は、大阪の「逢引き場所」へと「話」(ストーリー)は発展し、一方、夫の病状は目に見えて悪化していく。
 そして、三月下旬から四月上旬までは、学校は「春休み」であり、それゆえ、木村の体も自由であるので、妻(郁子)と木村とはほとんど「毎日」のように、午後より外出。夕刻帰宅を繰り返しながら、まさに「大阪のいつもの家」で二人は「逢引き」を積み重ねていくのである。そして、学校が始まると、今度は、(学校の授業が終わる)午後四時半頃から、妻(郁子)は身支度をし始めてから家を出て、木村の所へと逢いに行くようになるのである。――そして、四月十七日の「日曜日」の夜、ついに、夫にその「瞬間(とき)」が訪れるという内容であり、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/16

自分とは何か 芥川龍之介の世界

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回の『自分とは何か 芥川龍之介の世界』という作品は、人気の高い「自分とは何か、その他」と「芥川龍之介の世界」の、この「二つの作品」を一つに統合したものであり、まず、最初の「自分とは何か」では、デカルトの「われ思う、ゆえに我あり」を厳密に読み解き、ほんとうの自分とは何かを徹底的に解明しているとともに、「小林秀雄とランボー」では、なぜ、ランボーをあれほど熱っぽく語ったのか? その「真意」の根本的な考察であり、そして、「中原中也の思い出」では、圧倒的な「人気を得た」、中原中也の「ものの見方」が、再び、登場するとともに、有名な「汚れちまった悲しみに」についての考察にもなっています。一方、「芥川龍之介の世界」では、誰もがよく知っている「羅生門、杜子春、蜘蛛の糸、藪の中」に「トロッコ」をつけ加えたものであり、この最も有名な「四つの作品」と「トロッコ」という作品の一体どこがどのように魅力的なのか? その「本文」にできるだけ寄り添った「内容考察」になっているとともに、とくに「藪の中」では、いわゆる三人の供述のくい違いの「謎解き」から、まさに事件の「真相」の解明になっていますので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/13

谷崎潤一郎の世界 鍵(前半部)

 さて、今回の谷崎潤一郎の有名な『鍵』の「前半部」というのは、「谷崎潤一郎の世界」の「鍵」の「第一部」と「第二部」とを統合したものではあるが、その内容は、次のようなものである。――まず、「第一部」(四人の思惑)であるが、この作品の主要な「登場人物」は、「四人」であり、一人は、主人公の夫(大学教授)であり、一人は、その妻(郁子いくこ)である、また、一人は、娘(敏子)であり、そして、もう一人は、娘の結婚相手とみなされる「木村」という人物になるかと思う。そして、よく「三人」(母親と娘と木村)とで「映画」を一緒に観に出かけたり、また、夕食の時に、娘(敏子)を除いた「三人」(夫と妻と木村)とで酒(ブランデー)を飲むようになるが、ある日、妻(郁子)は、酒(ブランデー)に酔い過ぎて、風呂場で倒れるという「事件」を起こすことになるが、その後も同じような「パターン」を幾度も繰り返すという内容である。
 次に、「第二部」(敏子の別居)であるが、まず、敏子の別居以来、木村は遊びに来る表向きの口実がなくなった訳だが、相変らず二三日置きに来る。そして、夫(大学教授)は、ポラロイドやカメラ(ツワイス・イコン)などを使って妻(郁子)の「全裸写真」を夜な夜な撮ったりしているが、一方、別居した敏子と母親(郁子)それに木村とは、今までのように夫の「家」ではなく、むしろ別居した娘(敏子)の部屋で、最初は「三人」で、やがて「ブランデー」を飲み始めると、娘(敏子)は、いつしかその場からは消えて、妻(郁子)と木村の「二人」だけで「ブランデー」を飲み交わすようになり、そして、風呂場で倒れるということを「三度」繰り返すが、その三度目に、妻(郁子)と木村とは終に「最後の一線を越えてしまう」という展開になる内容であり、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/11

谷崎潤一郎の世界 鍵(第一部)

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回は、谷崎潤一郎の有名な『鍵』という作品であるが、この「作品」は、夫の「日記」と妻の「日記」のそれだけから構成されている作品であるとともに、夫の「日記」というのは、「漢字とカタカナ」の表記であり、一方、妻の「日記」というのは、「漢字とひらがな」の表記になっています。――そして、夫の日記の「本文」というのは、まさに「漢字とカタカナ」の表記であり、それは、ちらっと見ただけではすぐには内容の分からない、どこか日記にふさわしい何か秘密めいた感じを醸し出している文体ではあるが、しかし、それを読む読者にとっては実に「読みづらい」文体であり、それゆえ、その「本文」を正確に読めている人も少ないのではないかと思う。そこで、今回は「本文」をすべて「漢字とひながな」の表記に置き換えて書き記しているとともに、分量も非常に増えているので、今回は「五部作」として、その「第一部」から発表していきたいと思っていますので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/09

和歌や俳句の世界

 この「作品」を配信しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回の『和歌や俳句の世界』という作品は、まさに「二つのもの」(それは「古池や」と「柿食へば」)をいわば「一つに統合」したものであるが、それは、この「二つのもの」は、まさに有名な「和歌や俳句」(名歌や名句)の、その「一字一句」の具体的で詳細な「考察」になっているとともに、いわゆる「和歌や俳句の世界」(それら「和歌や俳句」とは一体どのようなものであるか?」の根本的な「考察」でもあり、例えば、一般に、「和歌」というのは、目の前の「情景」と、自分の現在の「心の状態」(或いは「心象風景」)などを、いわば「花鳥風月」などに託して、表現するということであり、また、「俳句」というのは、一体、何かと問えば、それは、「小説」で言えば、まさに「私(わたくし)小説」であり、その人自身が実際に「見聞き経験したこと」などを基にして、その時の「実感」の「情景」を、いわゆる「五・七・五」で表現するというものであり、そのように、和歌や俳句というものが、一体、どこからどのようにして生じて来るかの具体的な「考察」でもあり、それゆえ、若しも「興味や関心」がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/04

子供の遊び(完全版)

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回の「子供の遊び」(完全版)というのは、まさに「子供の遊び」の「第一部、第二部、第三部、そして、第四部」を一つに「集大成」したものであり、そして、「子供の遊び」というのは、すでに「乳幼児」の頃から活発に行なわれているとともに、「学童期」になれば、さらに実に多種多彩な「子供の遊び」でより活発に楽しく遊び合うまさに「全盛期」になるかと思うが、それでは、その実に多彩な「子供の遊び」などをあれこれ書き描くことに、一体、どのような「意味や価値」があるのかと問えば、それは、実に多彩な「子供の遊び」のそれぞれの「特徴」などをあれこれとらえて書き描くことは、結局は、それぞれ一つ一つの「遊び」の「本質や生命(いのち)」などにふれるということであり、今回は、その実に多種多彩な「子供の遊び」の「本質や生命(いのち)」などにふれる実に長い旅であり、若しも「興味や関心」がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。
2017/09/03

子供の遊び 2

 この「作品」を更新しましたので、興味や関心がありましたら、ぜひとも訪ねて見てください。――さて、今回の「子供の遊び2」(第二部)というのは、昔の子供たちにとっては実に懐かしい遊びの数々であり、例えば、めんこ遊びを初めとして、ビー玉遊び、ベーゴマ遊び、独楽廻し、また、凧揚げ、竹馬遊び、石けり遊び、おはじき遊び、ゴムとび遊び、そして、かごめかごめ、竹がえし、Sけん遊び、駄菓子屋、さらに、おもちゃ遊びというように、いわば昔から日本で受け継がれて来たいろいろな「伝承遊び」であって、子供の頃には、学校の友だちや近所の子供たちともう夢中になって遊び合ったという経験や想い出を持つ人の数は、恐らく、実に膨大な数にのぼるのではないでしょうか。
 もちろん、その「時代や地域」などによって、その「遊び方」(ルール)などには、実に様々な「違い」があるかと思うが、そういうことはあまり気にせずに、とにかく、それぞれの年代の人たちがそれぞれに子供であった頃を想い出しては、「……そう言えば、そういうこともあったなあ」と、日々の生活の忙しさにまみれて、すっかり忘れ果てていた、その当時の自分の「子供の心」などがふと甦(よみがえ)ってきて、自分でもびっくりしたり、非常に懐かしく感じられるというように、いろいろなことを想い出す一つの「切っ掛け」になってもらえれば、それで十分なことではないかと思う次第であります。